マスターは言っています。「苦しみがあるのは、自己と身体を同一化し、私(自我)が行為者であると思っているからである」。究極的な自分自身は身体でも考え方でもない、私たちの内面に静寂とともに存在する「自由」そのものです。この存在が自分の本当の姿です。そして、それは意識の深みにあるのではなく、すぐそこにいつもあります。深いとか浅いとかいう概念を超越しています。そうでなければ、どうして私たちが存在することができるでしょうか。私たちはいつでも静寂にいて、覚醒しているのです。これは「悟り」の状態と同じです。「悟り」とは自分自身が静寂の意識そのものであると認識することであり、身体や心の動きから自由であると知ることなのです。
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